千代田九条の会
ニューズレター No16(2007.11.12)


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ニューズレター No16(2007.11.12)

<事務局連絡先>千代田区猿楽町1−3−5 久野ビル3階

よびかけ人代表 鍛冶俊秀、隅野隆徳、中川雄一郎

 [シリーズ学習会 第8回 開かれる]

日本の近現代史 その1
 

 千代田九条の会は、11月9日にシリーズ学習会第8回を開催しました。
 今回のテーマは「日本の近現代史 その1 −日清・日露戦争から日中戦争までの歴史−」です。
シリーズ学習会第8回 講師は明治大学教授の山田朗さんにお願いしました。

 先生は冒頭、「今日の学習の目的は [1]近代日本の膨張主義の流れと戦争の原因をおさえる、 [2]日中戦争の開始、泥沼化の要因、日中戦争が〈記憶〉として定着していない要因を検討すること」と述べました。以下は講演の要旨です。




T 近代日本の膨張主義と戦争
      (明治維新〜第1次世界大戦)

 明治維新直後から対外膨張を志向していたが、対ロシア戦略とし朝鮮に出兵したのが膨張・軍拡の始まり。
 「主権線」(国境線)を守るためには「利益線」を確保する、という考え方が明治政府指導者たちの基本的戦略発想で、山県有朋総理大臣は「外交政略論」(1890年3月)で、「我邦利益線の焦点は実に朝鮮に在り」と述べている。
 そして日清戦争勝利により植民地(台湾など)を獲得、日本軍は台湾に上陸、占領、日露戦争勝利による韓国併合したことにより「主権線」が朝鮮に変わった。そうするとその外側の南満州が新「利益線」になった。
 これが、朝鮮半島 → 南満州 → 北満州 → 華北 という膨張の始まりだった。
 第1次大戦後世界は「民族自決」の潮流が大きくなったが、日本はそれを見誤り、 20世紀になっても19世紀的な膨張主義を続行していった。
 1928年のパリ不戦条約=戦争違法化(日本国憲法はこれを発展させたもの)を深刻に受け止めず新たな膨張・南進、中国本土への政治的・経済的進出を進めていった。



U 大陸への膨張と日中全面戦争(満州事変〜日中戦争)
 張作霖爆殺(1928年)を実行しこれに乗じて満蒙を武力占領。満州事変(1931年)を経て「満州国」建国と、"成果"を積み上げ、既成事実を作っていった。
 さらに第二の「満州国」をねらう華北分離工作を活発化し、華北5省(河北・山東・山西・綏遠・チャハル)を蒋介石率いる国民政府から分離し「自治政府」を作らせるなど、関東軍による既成事実の構築、政府による事後承認という形で膨張は進んでいった。
 そして華北分離から蒋介石政権の打倒へと目標を拡大し、戦火は華中(上海・南京)へ拡大したため、華中・華南に利権を有し、蒋政権を支援する英・米との対立は激化していった。(1939年)



日中戦争勃発と泥沼化の原因
 [1] 植民地・勢力圏を拡大しようとする明治以来の膨張主義的な発想
 [2] 軍部によって作られた既成事実の事後承認
 [3] 明確な目標のない戦争の継続(既成事実への執着 → 戦線の拡大の悪循環)
 [4] 泥沼化打開のためのさらなる悪循環
  ・広大な占領地 → 膨大な兵力の投入 → 日本軍の質的低下 → 生物化学兵器の使用
  ・ 日本軍の"現地調達""自活"方針 → 略奪・虐殺の悪循環 → 三光作戦
  ・ 各地で繰り返された虐殺・虐待・略奪・性暴力 → 日中戦争が語られない最大の要因









[パッチギ!トーク!]
井筒和幸 小森陽一 対談

 2007年10月22日 東京・千代田区で「パッチギ!トーク!」(主催は同実行委員会)が開催されました。
 映画「パッチギ!」「パッチギ! LOVE&PEACE」でお馴染みの井筒和幸監督と九条の会事務局長の小森陽一(東大教授)さんとの対談です。
 定員200名の会場は超満員。「今の社会・政治、何か違う?というかた、今日の話を聞いて考えてください」と主催者あいさつ。
 対談で井筒監督は「パッチギ上映は石原(慎太郎)の特攻美化映画(「俺は君のためにこそ死ににいく」)にぶつけた」と述べたあと「ネットでのバッシングがすごい。『日本人を描け』『朝鮮に帰れ』とか26年前に日本に来た工作員で本名は"金"というデマも流されている」と会場を笑わせました。
 小森さんが「自分にも『北朝鮮、ソ連(90年代の)に帰れ』などのバッシングがある」と紹介すると、井筒「絶望の先に希望があるというのがわからないやつらだ」と批判しました。
 小森「映画は74年が舞台。私は北海道大学の学生だった。『米の北爆はされる理由がある』と言っていた佐藤栄作がノーベル平和賞を受け、トロツキストは"転向"そんな時代だった」井筒「道頓堀をうろついていた」のやりとりも。
 続いて井筒監督は「ソウルで"ラブアンドピース"をやった。韓国では歴史教育をちゃんとやっている」「1944年、朝鮮人も徴用されて南方へいかされた。なかにはB級戦犯として処刑された人もいる。在日一世がどう戦争を乗り越えて生きてきたのかを描きたかった」「在日朝鮮人と言うな、日本人なんだ。100年の紆余曲折を経てきた」「大阪の生野区は人口の1/4が在日。パチンコ業界の人、一番の納税者が選挙権がない」と日本社会の矛盾、映画への思いを語りました。
 また自身の平和や戦争観については「父の出征に母は『はよ帰って来てや』と送り出した。庶民の感情とはこんなもの」「憲法は当たり前のことが書いてある。そのまま守ればよい。(アメリカに言われても)日本人はいじましいから金でと言えばいい」と話しました。
 続いて会場からの質問:「何故(在日をテーマにした)映画に?」
 井筒「奈良の家の隣に朴くんと言う人がいた。中学生になると木下という名前になった。なぜ?と思った。でも居心地がよくて父母に叱られるとそこに逃げ込んだ。においも違う、ミステリアスな世界だった。それが原点。自分ひとりでは出来ないがプロデューサーと二人三脚で映画撮れるようになった」
 質問:「自分は李といい生野区出身です。在日として何を発信していけばいい?」に井筒監督からは「アドレスをはっきりさせること。自分の名前を隠さずに。李と言う名前は世界に一億人いる。一番メジャーな名前だ。誇りを持って」と暖かい励ましの言葉が聞かれました。