千代田九条の会
ニューズレター No17(2008.1.22)


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ニューズレター No17(2008.1.22)

<事務局連絡先>千代田区猿楽町1−3−5 久野ビル3階

よびかけ人代表 鍛冶俊秀、隅野隆徳、中川雄一郎

[ 第9回シリーズ学習会 ]

日本の近現代史 その2
 

 「千代田九条の会」主催の第9回シリーズ学習会が、2008年1月16日に開催されました。
 今回は「日本の近現代史 その2 −日独伊3国同盟からアジア太平洋戦争敗戦までの歴史−」がテーマで、講師は前回に引き続き明治大学教授の山田朗さんです。
 先生は「日本の戦争は大きく3段階に分けられる」として、
1、明治維新から第1次世界大戦まで(欧米列強と協調しながらアジアに膨張していった時期)
2、自分だけの力で膨張していった時期(1920年代後半。満州事変・日中戦争。戦争の泥沼化)
3、日中戦争打開のため、強いところと一緒になってもっと大きな戦争をやる(3国同盟)1940年代の膨張主義の新段階。
で、今回はこの3、についてのお話でした。以下講演の要旨を紹介します。




T  膨張主義の新段階(日独伊3国同盟と南進)
 1939年9月に第2次世界大戦(ヨーロッパ戦線)が開始され、ドイツは西方攻勢でフランス、オランダ、ベルギーを占拠。イギリスのみがドイツとたたかっていた。
 アジアではイギリスがインド・ビルマ・マレーを植民地とし、フランスがベトナム・ラオス・カンボジアを、オランダがインドネシアを植民地としていた。
 日本は、[フランスが負けオランダも負け、ここでイギリスも負けると、ドイツにこれら植民地を独占される]その前に参戦して植民地分割の発言権を獲得する=「大東亜新秩序」を掲げた方針を近衛文麿、東条英機、松岡洋右などが1940年7月の「荻窪会談」で決めた。
 同年9月に南進(北部仏印に侵攻)した。目的は援蒋ルートを遮断し日中戦争に勝利することだった。
 しかし世界の情勢は変わっていた。独ソ開戦によりイギリス敗戦の危機は去る。これによりイギリスの支援のために対日妥協路線をとっていたアメリカが対日強硬路線へと変わった。
 1941年7月2日の御前会議で「対英米戦を辞せず」と決定。
 更なる武力南進で南部仏印へ進駐。日本がカンボジアまで侵攻したことで、当時8割の石油を輸出していたアメリカが石油を止めた。このことで早期開戦論が台頭した。
 1943年5月31日の御前会議で、国策としての領土拡張を決め戦火を拡大。敗戦への道をたどることになる。




U 膨張主義戦略と戦前の国家指導層(戦争を支えたものは何か?)
●陸軍が対外膨張・強硬路線の牽引車となり、海軍も軍拡南進路線を推進した。
●領土拡張を君主の事業とみなした昭和天皇の役割。---敗戦後講和交渉から帰った吉田首相に天皇は「明治天皇が獲得した領土を守れなかったのは残念だ」と語ったことがイギリスの外交文書に残っている。
●戦争熱を煽ったマスコミ、軍部に接近することにより勢力を維持・拡張しようとした政党も戦争を支えた。
● 民衆の側でも、不況・恐慌の打開を大陸進出・戦争に求める気運があったが、それは天皇制による「心の支配」---学校教育、軍隊教育、言論統制、治安維持法体制による価値観の一元化により、戦争体制が作られていったことにもよる。


 おわりに、山田先生は「『偉い人に任せていれば安心』ではなく、国民の監視が大切」。
 「戦争と言論統制・人権抑圧は必ず一緒に起きる。それは一気にではなくじわじわと忍び寄ってくる」。
 「平和のために払われた大きな犠牲の上に、平和憲法、憲法九条がある。そのことを再確認する必要がある」と結びました。




[参加者の声]
○「近衛さんはいい人だと思っていたが戦争拡大の推進者だったとか、目からウロコの話がたくさん聞けてよかった。なぜこんな企画をいままで知らせてくれなかったのか」
○「この続きの話が聞きたい。もっとやって欲しい」
○「大学の講義を聴いているようでおもしろかった」